東京地方裁判所 平成2年(ワ)3591号 判決 1992年6月19日
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告らの負担とする。
理由
【事 実】
第一 当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告ら各自に対し、金二二八〇万三六三〇円及びそれぞれの内金二〇八〇万三六三〇円に対する昭和六二年三月二四日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告米山章(以下「原告章」という。)は、昭和六二年三月二三日に死亡した米山洋生(昭和六一年七月四日生。以下「洋生」という。)の父であつた者であり、原告米山久美子(以下「原告久美子」という。)は、洋生の母であつた者である。
(二) 被告は、洋生の死亡当時、いわゆる無認可保育所である「ひろば共同保育所」(以下「本件保育所」という。)の施設長として本件保育所を運営していた者である。
2 保育委託契約の締結
原告らは、昭和六一年九月ころ、被告との間で、洋生の保育委託契約を締結した。
3 本件事故の発生及び洋生の死亡
(一) 洋生は、昭和六二年三月二三日、原告久美子に連れられて本件保育所に登園し、午前一一時三〇分ころ、乳児室で午睡に入つた。
(二) 乳幼児らの午睡中、被告は二階に上がつており、乳児室内には保母等は在室しておらず、隣の幼児室には、小山保母、岸上保母及び前迫(アルバイト)の三名が在室していた。午後一時ころ、洋生の泣き声がしたので小山保母が乳児室に入り、洋生の背中を叩いて寝かしつけたほか、午後二時ころ及び同二時三〇分ころ、他の乳児のおむつを交換するために保母が入室した。
(三) 午睡の終了時刻である午後三時を少し過ぎたころ、被告は、乳児室に入り、順番に乳児のおむつを交換した。洋生は、うつ伏せになつて顔の下半分は布団に覆われた状態であつた。被告が布団を取り除いたところ、洋生は、ぐつたりしており、顔面は蒼白で唇の周囲にはチアノーゼが出ていた(以下「本件事故」という。)。
(四) 被告は、小山保母に洋生の人工呼吸をさせる一方、本件保育所の園医に連絡しようとしたが、同医師が不在であつたため、続けて原告方に電話し、原告章に対して洋生のかかりつけの医師を問い合わせた。原告章は、直ちに車で約五〇〇メートル離れた本件保育所に向かい、到着後、被告に指示して救急車を呼ばせた。
(五) 洋生は、救急車で都立墨東病院に搬入され、同医院で救命措置がとられたものの、同日午後四時五二分ころ、死亡が確認された。
4 洋生の死因
洋生の死因は、吐瀉物を誤嚥したため気管が閉塞したことによる窒息死である。
5 被告の責任
(一) 不法行為責任
(1) 監視義務違反
<1> 洋生は、本件事故当時生後八か月の乳児であつて身体の各器管が未発達であり、また、本件のように食事を摂取した直後からの午睡の場合には摂取した未消化の食物が睡眠中に逆流するおそれが高い上、洋生は本件事故の前週の間体調を崩していたとの事情が存在したのであるから、洋生の保育にあたる責任者としては、午睡中、洋生の身体に突発的な異常が生じるかも知れない危険性に留意して、一人以上の保母を乳児室の中に在室させ、少なくとも一〇分程度の間隔で洋生の額に手を当ててみたり、呼吸の様子を確かめるなどしてその様子を確認させるべき注意義務があつたというべきである。
<2> しかるに、本件事故当時、保母らは、午睡中は乳児室内には在室しておらず、一、二度乳児のおむつを交換するために入室した外は、約三メートル離れた隣の幼児室から乳児室内を眺める程度であつて、洋生を含む乳児に対する適切な監視体制をしくことを怠つた被告の過失により、洋生の異常を発見するのが遅れ、その結果、適切な救命措置を講じる時機を逸して洋生を死に至らしめたものであるから、被告は、原告らが被つた損害を賠償する責任がある。
(2) 異常発見後の対応における義務違反
<1> 被告が洋生の異常を発見した当時、洋生はぐつたりとしてチアノーゼが出ている状態であり、園内には医師等の専門家はいなかつたのであるから、被告としては、直ちに救急車を呼び、専門家による気道確保等の救命措置を迅速に講じさせるようにすべき注意義務があつたというべきであり、かつ、本件では、直ちに救急車を呼んで適切な気道確保の措置を講じつつ病院に搬入して処置すれば救命可能性があつたものである。
<2> しかるに、被告は、異常発見後、救急車を呼ぼうとすることなく、園外で開業している医師に連絡しようとしたり、原告方に電話してかかりつけの医師を尋ねたりするなどして時間を無駄にした上、原告章が電話を受けて本件保育所に到着した時点においてもまだ救急車を呼ぼうとしておらず、前記注意義務を怠つた過失によつて、洋生は、専門家による適切な救命措置を受ける時機を逸した結果、病院搬入後の救命処置も効を奏せず死亡するに至つたものであるから、洋生の死亡によつて原告らが被つた損害を賠償する責任がある。
(二) 債務不履行責任
被告は、原告らとの間で洋生の保育委託契約を締結したのであるから、右契約上の義務として、前記(一)(1)<1>及び(2)<1>記載のように履行義務を負つていたところ、前記(一)(1)<2>及び(2)<2>記載のとおりこれらを怠つたことにより、洋生を死亡させたものであるから、原告らの被つた損害を賠償する責任がある。
6 損害
(一) 逸失利益
洋生は、死亡当時、満八か月の男児であつて、本件事故によつて死亡しなければ、一八歳から六七歳まで稼働することができ、昭和六三年賃金センサスによれば大卒男子労働者の全年齢平均年収額は金五四五万九六〇〇円であるから、生活費控除率を五〇パーセントとし、ライプニッツ方式により中間利息を控除して洋生の逸失利益の現在価額を算出すると、金二〇六〇万七二六〇円となる。
原告らは、洋生の父母として、右総額の二分の一(各金一〇三〇万三六三〇円)をそれぞれ相続した。
(二) 原告らの慰謝料
洋生を本件事故により死亡させたことによる原告らの精神的苦痛を慰謝するには、各自金一〇〇〇万円が相当である。
(三) 葬儀費用
原告らは、洋生の葬儀費用として各自金五〇万円を支払つた。
(四) 弁護士費用
原告らは、弁護士に本件訴訟の追行を依頼し、その費用として各自金二〇〇万円を支払うことを約した。
7 よつて、原告らは、各自、被告に対し、不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償として、それぞれ金二二八〇万三六三〇円及びそれぞれの内金二〇八〇万三六三〇円に対する本件不法行為成立の後である昭和六二年三月二四日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否等
1 請求原因1(当事者)(一)及び(二)の各事実は、いずれも、認める。
2 同2(保育委託契約締結)の事実は認める。
3 同3(本件事故の発生及び洋生の死亡)(一)ないし(五)の各事実は、いずれも、認める。
4 同4(洋生の死因)の事実は認める。洋生は、肺炎又は気管支炎による気道炎症を起こしていたため、午睡中に嘔吐してその吐瀉物を誤嚥した結果、窒息死するに至つたものであり、本質的には乳幼児突然死症候群(以下「SIDS」という。)とほぼ等しいものというべきである。
5(一)(1) 同5(一)(不法行為責任)(1)のうち、洋生が生後八か月の乳児であつたこと、保母らが午睡中乳児室内に在室していなかつたこと、乳児のおむつを交換するために数度にわたり乳児室に入室したことは認め、洋生が本件事故の前週の間体調を崩していたことは不知、その余は否認ないし争う。その余は不知ないし争う。
本件保育所では体調不全の乳幼児は受託しないこととしており、洋生についても、本件事故当日、原告久美子から体調に問題がある旨の報告は受けておらず、外観上も体調不全であることを疑わせるような兆候は一切認められなかつたのであるから、通常の場合以上に洋生の容態に留意すべき注意義務があつたものとはいえない。また、本件保育所では、乳児室と幼児室とは、一つの室内を椅子・ベッドなどで仕切つて区分しているに過ぎず、幼児室にいても乳児の状況は十分把握しうる状況にあつて、本件事故当時、三名の保母が事実上乳児のいる室内に同室して監視しており、乳児のむずかり声等に対してもその都度対応していたのであるから、何ら監視体制に欠けるところはない。原告主張のような個別的に乳児の体に触れる等の観察行為は、保育所の人的体制からみて過剰な要求であるばかりでなく、睡眠中の乳児にたいする対応として不適切な行為であり、被告は右のような注意義務まで負うものではない。本件では、洋生にむせたり煩悶するなどの反応が全くなかつたため、被告において十分な監視体制をとつていたにもかかわらず洋生の容態の急変を認識することが不可能であつたもので、被告には監視義務に違反した過失はない。
(2) 同5(一)(2)のうち、洋生がぐつたりとしてチアノーゼが出ていたこと、園内には医師がいなかつたこと、顧問医に連絡しようとしたこと、原告方に電話したことは認め、その余は否認ないし争う。
被告は、救急車の到着が遅きに失する可能性を考慮し、洋生をより迅速確実に専門家の手に委ねて医学的措置を講じさせるため、まず顧問医に連絡しようとしたが、顧問医が不在であつたため、本件保育所の近隣に居住している原告方に連絡して速やかに家庭医のもとに運搬しようとしたのであつて、被告の右判断に注意義務に欠けるところはなく、その間、小山保母をして洋生に対する人工呼吸・心臓マッサージ等の措置をとらせていたのであるから、被告は、異常発見後の対応において最善を尽くしていたというべく、注意義務違反は存在しない。
仮に直ちに救急車を呼ばなかつたことが注意義務違反にあたるとしても、本件では、発見時に既に非可逆的な脳死段階に移行しており救命可能性がなかつたものであるから、右注意義務違反と洋生の死亡との間には因果関係が認められないというべきである。
(二) 同5(二)に対する認否等については、同5(一)に対する右記載の認否等と同様である。
6 同6(損害)のうち、洋生が死亡当時満八か月の男児であつたこと、原告らが洋生の父母であつたことは認め、その余は否認ないし争う。
三 抗弁
原告らの本訴提起のときは、本件事故発生日である昭和六二年三月二三日から三年を経過しているから、被告の不法行為責任は時効によつて消滅しており、被告は、本訴において右時効を援用する。
四 抗弁に対する認否等争う。
本件事故が被告の過失に基づくことが明らかになつたのは、司法解剖の結果洋生の死因が誤嚥による窒息であることが判明した昭和六二年五月二一日であるから、時効は同日から進行し、本訴提起当時、時効は完成していない。
第三 証拠《略》
【理 由】
一 当事者
請求原因1の各事実は、当事者間に争いがない。
二 保育委託契約の締結
同2の事実は、当事者間に争いがない。
三 本件事故の発生及び洋生の死亡に至る経緯について
当事者間に争いのない事実に、《証拠略》を合わせると、以下の事実が認められる。
1 本件事故当日の朝、洋生は、平常どおり、原告久美子に連れられて本件保育所に登園した。岸上保母は、原告久美子から洋生を預かるに際し、洋生が前週風邪で保育所を休んでおり、連休明けでもあつたことから、原告久美子に洋生の様子を尋ねたところ、原告久美子は「つかまり立ちをするようになつた。」と述べたのみで、洋生の体調に異常があるというようなことは一切告げておらず、また、外見上も、熱があるとか鼻水が出ているなど健康状態に異常がある様子は認められなかつた。
2 本件保育所では、歩行が可能で普通食を与えられる子供を幼児とし、それに至らない子供を乳児として区別しており、本件事故当日は、施設長である被告及び岸上保母が乳児を担当し、佐藤保母、小山保母及びアルバイトの前迫某が幼児の保育にあたつていた。
当日、本件保育所に登園した乳幼児は全部で一三名であり、うち乳児は、洋生を含めて六名であつた。
3 洋生は、午前九時少し過ぎころ、眠そうな様子を示してぐずり出したため、被告は、洋生をベッドに寝かせた。
午前一〇時一五分ころ、洋生は、眼を覚まし、一人でつかまり立ちをして起き上がつたので、他の乳児に対応していた岸上保母が、洋生の手足やおなかをマッサージしたり、屈伸運動をさせたりして「あかちやん体操」を行つた。
その後、洋生は、ベッドの脇で遊んでいたが、午前一〇時三〇分ころ、岸上保母が離乳食を食べさせた後、被告が一五〇CCのミルクを作つて飲ませた。
食事の後、洋生は、ベッドの回りを這うなどして機嫌良く遊んでいたが、午前一一時三〇分ころ、眠そうな様子でぐずり出したため、通常より少し早い時間であつたが、被告が洋生をベッドに入れて寝かせた。
その後、午後一時ころまでの間に、順次全ての乳幼児が午睡に入つた。
4 本件保育所は、車の通りがほとんどない閑静な畑地の中に存在する。
本件保育所の乳幼児室の使用状況は、別紙図面のとおりであつて、約二〇畳の広さの、横約五・四メートル、縦約九メートルの南北に長い長方形の部屋のほぼ中央をベッド及び幼児用の椅子等で仕切り、玄関からみて奥の部分(南側半分)を乳児室とし、手前の部分(北側半分)を幼児室として一応の区分をしていた。午睡中は、乳児らは、それぞれ乳児室内に置かれた乳児用ベッドで寝ており、幼児らは、幼児室内に布団を敷いて寝ていて、保母らは、乳児担当・幼児担当の区別なく交代で監視にあたることとなつていた。
5 本件事故当日、乳幼児全員が午睡に入つた午後一時過ぎころ、被告、岸上保母及び前迫某は、幼児室内の別紙図面Dの位置でお別れ会の打ち合わせをしており、小山保母は、同じく幼児室内の別紙図面Bの位置に座つて、午睡中の乳幼児の監視にあたつていた。その後、午後二時ころ、被告は、乳幼児室を出て二階に上がり、室内には、前記Bの位置で監視にあたつていた小山保母のほか、別紙図面のCの位置(幼児室内の東側)のテーブル付近で事務等をしていた岸上保母及び前迫某の三名の保母らが残ることとなつた。
6 小山保母が座つていた前記Bの位置からは、乳幼児室のほぼ全体を見渡すことができ、洋生が寝ていた南側奥のベッドは、小山保母の正面約二メートル七〇センチメートル離れた場所にあつた。小山保母と右ベッドとの間には、前記のとおり幼児室との仕切りとして幼児用の椅子等が置かれていたけれども、それらによつて右ベッドが視界から遮られる状況にはなかつた。
7 午後一時過ぎころ、午睡中の洋生がぐずり声を上げたため、小山保母が洋生のそばに行き、おむつが濡れていないのを確かめた後、背中をとんとん叩いて寝かしつけた。その際、洋生の様子には特に変わつたところはなかつた。
午後二時ころ、他の乳児がぐずり声を上げたため、岸上保母が乳児室に行き、洋生のベッドの近くの、西側窓際に縦に並んで置かれた二つのベッドに寝ている乳児のおむつをそれぞれ換えた。
午後二時三〇分ころから、幼児室では何人かの幼児が眼を覚ましはじめたが、そのころ、乳児室から再度ぐずり声が聞こえたため、岸上保母が対応し、窓際のベッドの二人の乳児のおむつを換えた。
8 午睡の終了時刻である午後三時を少し過ぎたころ、岸上保母は、乳児室に入り、洋生の寝ていたベッドの近くの、別紙図面に「ワゴン」と記載された位置で乳児の午後のミルクを作つており、小山保母は、前記Bの位置で、起き出した幼児らの着替えをさせていた。
そのころ、被告は、二階から下りてきて乳幼児室全体の電気をつけ、丁度外出していた佐藤保母から電話がかかつてきたためこれに応えた後、乳児室に入り、西側のカーテンを開けて、まず、西側窓際に置かれた二つのベッドで目を覚ましていた乳児らのおむつが濡れていないことを確認し、続けて、洋生のベッドに近づいた。洋生は、東側に頭を、西側に足を向けてうつぶせになつて寝ており、右耳を下にして顔を幼児室の方に向けていたが、顔の鼻から下半分は掛け布団に隠れていた。被告は、洋生を起こそうとして顔から掛け布団を剥がしたところ、洋生は、唇が濃い紫色になつており、口の周辺にもチアノーゼが出ていた。被告は、洋生を抱き上げ、声を掛けたが、ぐつたりとして反応がなかつたため、他の保母らに急を告げ、最も保育経験の豊富な小山保母に洋生に対する応急措置を委ねた。
小山保母は、洋生の背中を四、五回叩いた上、口の中に人差し指を入れたが、口の中には何も入つておらず、喉まで指を入れて吐きださせようとしたものの、何も出てこなかつたため、続けて、マウスツーマウスで人工呼吸をするとともに心臓マッサージを施した。人工呼吸を開始してから四、五分経過したころ、唇の紫色が若干薄まつたように感じられたが、それ以上洋生の顔色等に変化は見られなかつた。
9 一方、被告は、本件保育所から車で一〇分弱のところで開業している顧問医に電話して来園を依頼しようとしたが、顧問医が不在であつたため、続けて原告方に電話した。被告は、電話に出た原告章に対し、洋生の様子がおかしいのでかかりつけの医者を教えてほしい旨告げたが、原告章は、すぐ行くからと言つて電話を切つた。
原告章は、直ちに車で約五〇〇メートル離れた本件保育所に向かい、電話を受けてから、三、四分後に本件保育所に到着した。原告章が乳幼児室内に入ると、小山保母が洋生を左手に抱き抱えるようにして人工呼吸をしており、被告及び他の保母らは、周囲に立つてそれを見ていた。原告章が被告に「救急車を呼んだのか。」ときいたところ、被告は「まだ呼んでいない。」と答えたため、原告章は「早く救急車を呼べ。」と指示して被告に救急車を呼ばせた。救急車に電話した時刻は、午後三時一八分であり、救急車は、午後三時二三分に本件保育所に到着したが、それまでの間、小山保母は人工呼吸と心臓マッサージを続けた。
10 洋生は、救急車に乗せられて救急隊員による酸素吸入及び心臓マッサージを受け、午後三時四五分に墨東病院に到着し、同病院において気道確保の措置が採られたが、午後四時五二分、死亡が確認された。
以上の事実が認められる。被告は、本人尋問において、原告章に電話した後、救急車に電話しようとしていた旨供述するが、右供述は、反対趣旨の原告章本人尋問の結果に照らし、信用することができない。
四 洋生の死亡について
洋生の死因が吐瀉物誤嚥による窒息死であることは当事者間に争いがなく、他方、《証拠略》によれば、翌日行われた解剖の際、洋生の気管内には気管支の末梢にまで多量の胃内容物があつて広範囲にわたり管腔を閉塞しており、ある部分では気管支を完全に閉塞している状態であつたこと、吐物が気管の中に入つたことに対する生体反応とみられる気管支の強い収縮が認められたこと、諸臓器の強い鬱血・漿膜下等の溢血・流動性の心臓血等からみて本件は急性窒息による死亡と考えられること及び気管粘膜の状況から判断して気管支内に炎症反応が存在したと考えられることの各事実が認められ、右当事者間に争いのない事実に証拠によつて認定される各事実を合わせると、本件事故当時、洋生は、気管支炎又は軽度の気管支肺炎の症状を有しており、それによる気道炎症が刺激となつて午睡中に嘔吐し、吐瀉物を誤嚥した結果、気管が閉塞して急性窒息により死亡したものと推認される。
被告は、本件における洋生の死因は、本質的にSIDSとほぼ等しいものである旨主張するが、《証拠略》によれば、SIDSとは、乳幼児の突然の死亡のうち、それまでの健康状態・既往歴からは予測できず、かつ、死後の十分な検索によつても死因となり得るような異常所見が見当たらない場合の診断名であることが認められるところ、本件では、吐物誤嚥による窒息死であること自体は当事者間に争いがなく、証拠上も右死因に疑いを抱かせるような事実は何ら認められないのであるから、洋生の死因をSIDSと本質的に等しいものということはできず、被告の右主張は採用できない。
五 被告の責任及び因果関係
1 監視義務について
(一) 前記三7及び8並びに四で認定した各事実によれば、洋生は、午後一時過ぎに小山保母が寝かしつけてから午後三時過ぎに被告が異常を発見するまでの間に嘔吐して吐物を誤嚥したものであるところ、《証拠略》によれば、小山保母らは、洋生が嘔吐した時点ではその嘔吐に気づいていないことが認められるけれども、この間に洋生の容態に異常が生じたことを示す何らかの外形的事実が存在したことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて、《証拠略》によれば、一般に、乳幼児の気管支内に異物が入つて気道が閉塞した場合において、その閉塞の状況次第では、外部から容易に認識しうるような反応を伴うことなく即座に呼吸等の生体反応が停止してしまうこともあり得ると認識されているところ、本件でも、洋生の寝ていたベッドがほとんど濡れておらず、また、口の中にも吐物が存在しなかつたこと等から推して、洋生がむせたり咳をしたりすることなく吐瀉物(しかし、ほとんど口外には出なかつた。)を誤嚥したと想定しても不合理ではないことが認められ、この事実に加えて、前記三4及び6から8までの認定のとおり、乳幼児らの午睡中、小山保母は洋生のベッドの正面約二メートル七〇センチメートルの位置に座つており、岸上保母及び前迫も幼児室内に在室していたこと、岸上保母は午後三時少し過ぎたころ、洋生の寝ていたベッドの近くでミルクを作つていたこと、本件保育所は、環境的には閑静な場所に存在し、午睡中はわずかな物音でも聞き取れる程度の静寂度であつたと考えられ、現実にも、洋生や他の乳児らがぐずり声を上げた際には、小山保母又は岸上保母がその都度気づいて対応していることなどの各事実をも合わせて考慮すれば、本件において、洋生は、嘔吐誤嚥の異常の発生の際、外部から認識可能な外形的兆候をほとんど示すことがなく、かつ、その直後においてそのような外形的兆候をほとんど示すことのないまま呼吸停止の状態に至つた可能性が多分にあるものといわざるを得ず、したがつて、保母らが洋生の右のような嘔吐誤嚥・呼吸停止の異常に気づかなかつたとしても、これをもつて直ちに監視義務を怠つた過失があるということはできない。
(二) 原告は、この点に関し、少なくとも一〇分程度の間隔で洋生の額に手を当ててみたり、呼吸の様子を確かめるなどすべきであつた旨主張するが、本件事故当日洋生が体調を崩しており、普段よりも特に注意を要する状態にあることを被告が認識していたのであれば格別、被告が洋生がそのような状態にあることを知り、又はこれを知り得べきであつたことを認めるべき証拠がないのであるから、被告に対し、原告の右主張の程度に至るまでの監視義務を負わせることはできない。
(三) 以上の他に、被告に監視義務に違反した事実があつたことを認めるに足りる証拠はなく、監視義務違反に基づく原告の主張は、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。
2 異常発見後の対応について
(一) 義務違反の有無について
(1) 被告が洋生の異常を発見した当時、洋生は、口の周辺にチアノーゼが出てぐつたりしていたのであるから、被告としては、可能な限り人工呼吸等の応急措置を施す一方で、直ちに医師等の専門家に救命措置を委ねるようにすべき義務があつたものというべきである。
(2) そこで被告のとつた行為の適否につき検討するに、小山保母に人工呼吸等をさせる一方で、本件保育所への道順を熟知している旧知の顧問医にまず電話して来園及び救命措置を依頼しようとした行為は、洋生の異常に対してどのような医療的措置が必要であるかが被告らに明らかでなかつた右時点における判断としては、必ずしも合理性に欠ける不適切なものであつたとまでいうことはできない。
しかしながら、被告は、顧問医が不在であることがわかつた後、続けて原告方に電話してかかりつけの医師を尋ねた上、原告章が本件保育所に到着して指示するまで救急車を呼ぼうとしておらず、その本人尋問において、「救急車を呼ぶよりもかかりつけの医師をきいて直接そちらに運ぶほうが早いと考えて原告方に電話したが、原告章がすぐ行くと言つたので、同人の車で病院に連れていつてもらおうと思つた」旨供述するが、同本人尋問の結果によれば、本件保育所には車を運転できる者はいなかつたから、原告章からかかりつけの病院を聞いても、それから更にタクシーを呼ぶなどして病院に運ばなければならない状況であつたことが認められ、また、原告章が到着するのを待つてその車で病院に運ぶにしても、信号待ちや渋滞の可能性を考慮すれば、むしろ最初から直接に救急車を呼んで救急隊員による応急措置を講じながら病院に搬入することの方が専門的な救命措置を講じさせるという点で迅速かつ確実な方策であることは明らかというべきであるから、顧問医が不在であるとわかつた右時点において、救急車を呼ばなかつた被告の行為は、本件における対応として著しく適切さに欠け、かつ、常識では理解できないものであつて、前記注意義務に違反するものといわざるをえない。
(二) 死亡との因果関係(救命可能性)について
(1) 《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。
<1> 吐物が誤嚥された場合の処置としては、速やかにその吐物を外に出すとともに気道を確保することが必要である。
<2> 本件では、気道の上方よりもむしろ気管支の末梢の方に多量の胃内容物が詰まつていることから、気道確保の方法として人工呼吸のみでは足りず、また、単なる気管内挿管でも不十分であつて、挿管した上更に気管内洗浄が必要とされる。
右のような完全な気道確保を行うためには、麻酔の際に使用するのと同様の医療設備が必要である。
<3> 一般的に、窒息の場合、数分以内に十分な気道確保等の医療措置が採られなければ救命可能性は低く、特に気道が完全に閉塞された場合には、数分間で不可逆的に死に至る。
<4> 本件においては、気管支は、一部交通があつた可能性はあるものの部分的には完全に閉塞しており、気管から気管支末梢にかけて胃内容物が多量に存在して主気管支内腔を完全に閉塞する状態であつた。
(2) 前記(1)<1>ないし<4>の各事実からすれば、本件においては、救命措置としてマウスツーマウスや酸素マスクによる人工呼吸では不十分であつて、気管内挿管及び気管内洗浄等の医療設備を有した病院に搬入した上で右各措置を講じる必要があり、しかも、洋生が吐物を誤嚥して窒息してから数分以内にこれらの措置が行われなければ救命可能性が低いものと認められる。
(3) ところが、前記三9及び10認定のとおり、本件では、午後三時一八分に救急車に電話した後、同三時二三分に救急車が本件保育所に到着し、同三時四五分に病院に搬入されて気管内挿管の措置を採るに至つているのであるから、仮に洋生が異常発見の直前に窒息状態になつたものであり、発見後直ちに救急車を呼んでいたとしても、救急車を呼んでから前記の有効な気道確保の措置が採られるまでに約二七分以上の時間が経過したものと認められ、その間、救急隊員による酸素吸入や心臓マッサージ等の措置が採られていたことを考慮にいれてもなお、洋生の救命可能性はほとんどなく、まして、洋生の異常が発見されたときには洋生には既にチアノーゼが生じており、右の発見時までに気道閉塞後既に相当の時間が経過してしまつていたのであるから、結局、救急車を直ちに呼んでも洋生の救命可能性はなかつたものといわざるを得ない。
(4) そうしてみると、被告の前記(一)の義務違反と洋生の死亡との間には、相当因果関係を認めることはできないから、被告の右義務違反を理由として洋生の死亡による損害の賠償を請求する原告の主張は、理由がない。
3 右1及び2の判断によれば、被告には、保育上の監視義務違反は認められず、また、異常発見後の対応における義務違反と洋生の死亡との間には相当因果関係が認められないので、被告が洋生の死亡について債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償責任を負うべき理由はないといわざるを得ない。
六 結語
以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 雛形要松 裁判官 天野登喜治 裁判官 増森珠美)